町川ジュンコの人生つうしんぼ
■ History
じゃじゃ馬だった幼少期
香川県の三木町で生まれ育ちました。
両親と姉の四人家族で、父は真面目な畳職人。
私はじゃじゃ馬な性格で、
自由すぎてよく怒られていました。

それを象徴するのが、小学校に入学してすぐのこと。
ランドセルを学校の垣根にかけたまま
友達の家に遊びに行き、
家に帰ると、家の前にパトカーが停まっていました。
私が誘拐されたと勘違いした両親が、
捜索願を出していたのです。
そんな大騒動になっているとも知らず、
歌を唄いながら帰宅した私……。

今では笑い話ですが、
両親は気が気じゃなかったと思います。
親が敷いたレールを歩むことに
疑問を感じ始めた思春期
思春期、私は「親が敷いたレール」を
歩くことに疑問を感じ始めました。
運動会ではいつも徒競走で一番だったため、
中学では先生と親から陸上部を薦められました。
本当はバレーボール部に入りたかったのですが、
渋々陸上部へ。
100m短距離と走り高跳びが得意で、
100mのベストタイムは12.8秒でした。

高校進学でも、姉が通う高校の
陸上部監督から熱心に誘われ、
親も監督に同情して
私をその高校に入れさせようとしました。

本当は別の高校を希望していたものの、
結局は自分の意思を通すことは
できませんでした。

「二十歳までは親の言うことを聞く義務がある」
と繰り返された日々。
私はそれにいつも最大限の反発をしてきました。
グレることはありませんでしたが、
両親は常に私に手を焼いていたと思います。
経営者になるという夢を加速させた
会社員時代
両親は
「娘は高校を出たら良い会社に就職し、
 
良いところに嫁ぐ」
と考えていました。

姉はその通り銀行に就職し結婚しましたが、
私は堅い仕事は合わないと感じ、進学を希望して就職活動には身が入りませんでした。

美術の先生にも
「まさか銀行に行かんよな?」
と言われたほどです。
けれど結局、なりたくなかった銀行に就職。
お札を数える毎日が苦痛で、
半年で親に相談せず退職しました。

その後は、電化メーカー系の
金融会社に就職。
ここは、私の性に合っていたのか
6年ほど楽しく働けました。

ある日、「年金制度が将来破綻する」との
報道を目にしたのです。
「このままでは将来が不安だ」と痛感。
会社員の給料では限界があると感じ、
この頃から「いつかは自分でビジネスをしたい」と、
経営者を目指すようになります。
結婚と離婚 波乱万丈の始まり 
そして念願だった自営業の道へ
27歳で、高校時代に憧れていた
陸上部の先輩と結婚しました。
幸せな新婚生活もつかの間、
結婚から1年後、夫が心筋梗塞で倒れ、
生死をさまよう緊急入院となりました。

幸い命は助かり、障害も残らず退院できたものの、
夫の健康や経済的な不安から
次第に夫婦関係がぎくしゃく。

私自身も何かに追われるような不安に駆られました。
そして息子が2歳のとき、とうとう離婚。
32歳でシングルマザーとしての生活が始まりました。

そんな時、父から
「何か手に職をつけたら?」
と助言されました。
畳職人だった父の背中を思い出し、
私も何か一生使える技術を持ちたいと
考えるように。

子どもの頃から絵を描くのが好きだった私は、
「色と筆を使うメイクなら自分に合うかもしれない」と思い、
メイクアップアーチストの道を
目指すことにしました。

一年間、両親に子どもを預けながら、
大阪のシュウウエムラメイクアップスクールに
週1回通わせてもらいました。
修了後プロのメイクアップアーティストとしての
ディプロマを取得し、
ここからが、私の経営者としての第一歩でした。

子どもの頃は親に反抗ばかりしていましたが、
親の支えがあったからこそ今の私があります。
感謝しかないですね。
再婚、北海道へ移住
美容健康研究科としても、
多方面で仕事をさせていただき、
様々なご縁から、北海道の方との出会いがあり
40歳で再婚することになり、
札幌に移住を決めます。

専業主婦で退屈そうにしていたら、夫から
「またメイクの仕事を始めたら?」と薦められ、
またメイクアップアーティストの仕事を
始めることになります。

メイクサロンは札幌にマッチしたのか、
次々とお客様が来られ、
私は毎日仕事に明け暮れていました。

そのうち
「プロのメイクアップアーテストになりたい」
という人もでてきて、
メイクアップスクールも開校することになるのです。

気づけばプロコースの卒業生は
100人を超えて輩出し、
今も現役で活躍している生徒がいます。

サロンもスクールも好調でしたが、
突如暗雲が立ち込めます。
2005年「美容師法」が改正され、
美容師免許がないとお客様に
ヘアメイクを施してはいけないという
法律が施行されるのです。

「法律って、誰が決めてるの?
 国会議員?って誰?」
って、怒りがこみあげたのを覚えています。

スタッフの一人から
「先生が国会議員になればいいんですよ」
なんて冗談をいわれたこともありましたが、
私が政治に関心を持つのはもっと先のことです。

新規客は激減。売上も激減。
再建の見通しなしという。
にっちもさっちもいかないところまで
追いつめられました。
そして、離婚。

苦渋の決断で、私は引退し、香川に戻ります。

それから一年ほどたったある日、
あの鈴木宗男先生から突如電話が鳴るわけです。
鈴木宗男先生から、突然の電話
忘れもしない2009年の8月13日朝の8時半、
「鈴木宗男です。折り返し電話をください」
という留守電が入っていました。

慌てて電話を掛けたら
「新党大地の立候補者として、
 
衆議院選挙に出てほしい」
と言うのです。

当時、新党大地が公約に
女性議員の輩出を掲げており、
過去に数回会ったことがある私のことを
思い出したようでした。

「何を言っているのですか?
 無理です、無理です!」
「いや、出てくれ!」
の押し問答が続くなか、
「私はもう香川に帰っていて
 
北海道にいませんし、無理です」
とも伝えたのですが、
「国政選挙は日本国内に住んでいたら出られる」
と言われ……。
もう断れませんでした。

「私は選挙のことは何もわからないし、
 
演説とか言われても何も話せません」
と伝えましたが、
「全部、私がやるから大丈夫!
 何も心配しなくていいから、
 
このあと秘書に連絡させるから、
 
明日北海道に来なさい」
と言われ、電話がガチャリときれました。

電話があって、わずか一時間の間で、
国政選挙への出馬が決まってしまったのです。

そして、何が何だか分からないまま、
明朝一番の飛行機で札幌に行くことになりました。


鈴木宗男先生との出会い
宗男先生とは、それまでに
何度かお会いしたことがありました。
2005年にメイクの生徒さん達と
アフリカのウガンダの子供たちを支援する
チャリティイベントを開催した時のことです。

そのイベントのチケットが
何故か鈴木宗男事務所に届けられ、
当時秘書だったアフリカ出身のムルアカさんを連れて
私のサロンに宗男先生が直々にご来店されたのです。

初対面の印象はとても良いものでした。
当時、宗男先生は
マスコミからバッシングを受けていて、
私もテレビでその姿を度々観ていました。

私は、根拠はないものの、直観的に
「この人は何かに嵌められたのでは?」
なんて感じていました。

人って、やってきたことや考えていることが
全部顔に出ますから。
何と言っても、
私は顔ばっかり見ているプロですから、
わかっちゃうんですよ。
再び、北海道へ!
衆議院選挙公示の日、札幌の大通り公園で
「第一声」というのがあるそうで、
選挙カーの上に上がることに。
これから何が始まるんだ?

選挙カーの前にはテレビカメラがずらり。
歌手の松山千春さんも応援に駆けつけてくださり、
同じ車に乗ってきました。

私は以前から千春さんファンだったので、
嬉しかったですけど。
それどころではありません(笑)

車に上がった時点では、
まだ何をするのかもわからないまま。

宗男先生が演説をし、
そして隣りの候補者が演説していく様子を見て
事態を把握しました。
私にも来る!! エ~!!

宗男先生は
「演説しなくていいって言ったのに!」
と頭が真っ白になりました。

とりあえず震えながら、自己紹介と、
「女性の立場から声を上げていきます!」
なんてことを宣言したような気がします。

選挙カーから降りた時、
「もー! 騙したな!」
と宗男先生を思いっきり睨みましたよ(笑)
ホント!

選挙期間の12日間はとにかく必死でした
地獄でした。
私のせいで票を減さないようにだけはしないと。

選挙が終わった瞬間、涙が止まらなかったことを
今でもよく覚えています。
これが50歳のことでした。
あれよ、あれよ、という間に、
新党大地の副代表に
その選挙から一年半後、私が予想もしていなかった、
2010年10月に宗男先生が
最高裁の有罪判決を受けることになるのです。
あまりにも突然すぎて悔しくて涙も出ませんでした。

その時の私は、新党大地の副代表。
新党大地鈴木宗男代表の代理を務める役です。

ここで言っておきますが宗男先生は冤罪です。
その事については長くなりますので、
また別の機会にお話ししたいと思いますが、
今でも再審請求をして検察と闘っています。

宗男先生がいない間、理不尽な権力と闘う為に、
私と事務所の仲間は
「取り調べの可視化」の署名運動に取り組みました。
冤罪は二度と起こしてはならないという思いでした。

確か一年で約70,000件の署名を集めたと思います。
その署名を国会に提出し、
取り調べの可視化が採決され、今に至っています。

この時、署名の力ってすごいと思いました。
実際に法律ができたんだから。

宗男先生が収監された2010年10月から、
知の巨人といわれる
「佐藤優さんの「東京大地塾」」が始まり、
そこで私は毎月勉強させていただき、
私もかなりの政治の裏側を知ることができました。

佐藤優さんと鈴木宗男先生のエピソードは
ここでは割愛しますが、
著書「国家の罠」をはじめ
様々な著書やYouTubeがありますので
ご覧いただければと思います。

「東京大地塾」は
今でもYouTubeで毎月配信されています。
https://www.youtube.com/@FreeJournal
香川に戻り、
衆議院議員玉木雄一郎氏の
公設第一秘書に
私が北海道で政治活動を続けた理由は、
宗男先生の公民権停止5年が終わり、
先生が立候補できるまでの間、
誰かが新党大地の候補者となって、
新党大地の票を繋ぎとめるためでした。

その間、私も国政選挙に出ていました。
2013年にようやく、
娘の鈴木貴子さんが衆議院議員に当選して、
私の役は終わった、これで達成できたと
満足していました。

そして2014年また新たな展開が始まります。
香川でお世話になっていた方からの勧めで、
現在の国民民主党党首である、
玉木雄一郎代議士の公設秘書に
というお話しでした。

秘書の仕事はやったことありませんでしたが、
香川に帰れると思ったら嬉しくて、
私は喜んでお受けしました。

秘書の仕事は大変でしたが、
作業をデジタル化することで、
自分のスキルアップにもなったと思います。

しかし、共産党と組んで
参議院選挙を戦うなんてことになり、
この展開には、どうしても容認できず、
三年も経たないうちに秘書を辞めてしまいます。

これまで、いろいろな政党や政治に携わってきて、
自分自身も限界を感じていました。
政治を一から学びたいという気持ちが強くなり、
大学に行って学ぼうと決意します。
上京後、鈴木貴子代議士の秘書に。
そして鈴木宗男先生の公設秘書に。
2017年、いざ上京したものの、
大学に通うだけでは時間を持て余していましたので、
宗男先生に
「何か仕事をさせてもらえないか」とお願いして、
衆議院議員鈴木貴子代議士の
私設秘書をさせていただくことになりました。

そして翌年、
鈴木宗男先生の札幌事務所の所長として
転勤が命じられ、私は三度札幌へ。

2019年鈴木宗男先生が、
参議院議員選挙に9年ぶりに当選し、
国政復帰を果たします。
私は、ここで日本維新の会と出会う訳です。

2021年5月
日本維新の会が日本大改革プランを発表し、
「ベーシックインカム」に衝撃を受け、
私がやりたかった政策そのものでした。

それから次第に自分の進む道に
「選挙」という二文字がちらつき始めるのでした。
転機になった、
2021年自民党の総裁選挙
2021年8月、
私はコロナのデルタ株に感染して入院します。
私自身は大したことないとあまくみていたのですが、
かなり重かったみたいです。

9月に自民党の総裁選挙があって、
一般党員の投票で岸田文雄氏より
河野太郎氏が大差をつけたのに、
最終国会議員の投票で、
あっけなく岸田総理が誕生した瞬間でした。

「ダメだ! ダメだ!
 まだこんな古い派閥政治をやってるんだ!
 これじゃ日本がワヤになる!!」
テレビに向かって叫んでいました。

今の政治は、
業界団体や大手企業に向いた政策ばかりで
国民は後回しじゃないですか。

どんどん格差が広がって問題が広がっているのに、
的外れの政策ばかり。
選挙の人気取りばかりで
真剣に国民に寄り添っていません。

NISAなんてとんでもありません!


もう止まらない! 
私はやると決めた!!
もう怒りが頂点に達しました。

「衆議院選挙に出て自民党に喝を入れてやる!」

それからすぐに選挙の準備を始め、
信じられないくらい、頭がフル回転していました。
選挙は1か月以内にある衆議院総選挙です。

鈴木宗男先生に
「香川1区で選挙に出ます」と告げました。
先生はびっくりした様子で少しの沈黙のあと
「町川は選挙に出ないって、
 
言ってたんじゃないのか?」
「考えが変わりました。
 
日本維新の会から公認をもらえるよう
 
私を推薦してください!」
と凄い勢いでお願いしました。

あの時の私は、何かに憑りつかれているようで
止まりませんでした(笑)

そうそう、憑りつかれてると言えば、
私が立候補を表明した後の、
立憲民主党小川淳也さんの様子を思い出します。

私に電話をかけてきて
「選挙に出ないで!
 僕が落ちたら町川さんのせいだから!」
としつこく50分もダダをこねたんです。
さらに実家の父のところにも行って
出馬を止めさせてくれと言ったり、
維新に公認を取り下げてくれと直談判したり、
あの時の小川淳也さんの常軌を逸した様子は
本当に信じられないですね。
現職の国会議員が、新人の私に
民主主義を捻じ曲げようとする行為は
あってはならないと思います。

でも、このことが逆に、
私の闘志に火をつけるのです。
本当の意味での私の政治家人生はここからです。
2021年衆議院選挙、
2022年参議院選挙、
2024年衆議院選挙と日本維新の会から
三度の国政選挙に挑戦
2025年の参議院選挙を目指して
4年間活動してまいりました。
徐々に手ごたえを感じています。
後援会も結成しました。

支持母体のない、しがらみのない選挙で勝つには
本当に大変ですが、
最近は有権者の意識も変わりつつあります。

今年、3月に体調を崩してから、
もう選挙は無理と参議院選挙を諦めていました。
5月に入り体調が戻ると、
やっぱりどうしても諦めきれず、
日本維新の会に公認申請をしてみましたが
却下されます。

ここで私は腹をくくります。
無所属で闘おう!
以外にも、あっさり、決めることができました。
これで私は自由だ!


私の野望
10年後のベーシックインカム実現。
20年後の四国新幹線開通。
50年後の瀬戸内海中トンネル開通。

そんなの無理でしょう? というかもしれませんが、
描かないと実現しません。
瀬戸大橋だってそうでしょ?
言い続けないと実現しません。
今の延長が未来をつくります。

2009年に政治の世界に入って16年。
人生100年ですから、
まだまだ続くよ「町川ジュンコのつうしんぼ」
これからも、町川ジュンコの波乱万丈に
候ご期待、お楽しみください。
これからもよろしくお願い申し上げます!

ここまで読んでいただきありがとうございました。
また、このホームページをのぞきに来てくださいネ!


ベーシックインカムへの想い
私は、ベーシックインカムをいつか実現させたいと、
強く願っています。
その理由は、「生きづらさ」や「将来の不安」から、
すべての人を解放したいからです。

世界ではすでに実現している国や地方があります。
日本もいづれ近い将来、
ベーシックインカムを取り入れる時期がきます。

今の日本が抱える大きな課題、
とくに少子化問題、年金、経済問題、
都会一極集中、地方活性化、など、
様々な多種多様の課題が山積しています。
これまで先延ばししてきたこれらの問題を
解決するのが「ベーシックインカム」です。

たとえば、少子化問題。
2024年の出生数は72万人、
9年年連続で過去最少を更新しています。
2023年と比べると3万7千人減少です。
一方、死亡数はその倍以上161万8千人、
出生数と死亡数の差は89万7696人で
過去最大の減少幅でした。

また、結婚する人は減り、離婚は増えている。
これが今の日本です。
若い人たちは
「子育てはお金がかかる」
「自分の人生が制限される」
と不安を抱え、
結婚や出産を選ばない人が増えています。
一方で、本当は結婚したい、
子どもがほしいと思っている人もたくさんいます。
ですが、経済的な見通しが立たない。
だから、一歩踏み出せないんです。
安心して家族を持てる環境を、
政治が用意しなくてどうするんでしょう。

このままでは、日本の未来は
ほんとうに危ういと感じています。
憲法13条には
「すべて国民は、幸福を追求する権利を持つ」
とあります。
それなのに、今の社会保障制度は、
欠陥だらけで満たすことができていません。
政治の側が本気で変わらなきゃいけません。

しかし男性が多くを占める政治の場では、
子どもを産む・育てることを
真剣に議論する男性議員は殆どいません。
ですから女性の子育ての現場の声が反映されず、
少子化がどんどん進んでいるわけです。
現場の実感を持っている女性が、
政治の場で声を上げていかなければなりません。

今の若い人たちに、
家族を持つ幸せ、子どもと生きる楽しさを、
もっと味わってほしいですね。
人生って、しんどいこともあるけれど、
楽しいこともたくさんあるんです。
もし30年前にベーシックインカムがあったら、
私だって3人でも5人でも産んでましたよ!(笑)
ベーシックインカムは、
決して夢物語ではないのです。

少子化対策は、
まず子供を産み育てられる経済体制を
先に整えなければなりません。
少子化対策は将来の経済対策にも直結します。

経済的な不安が軽減されると、
消費行動が盛んになり、経済が活性化します。

また、精神的安定にも繋がり、
無理に都会でなくても、
地方で豊かな生活を送ることができます。
地方活性化にも繋がり、
日本全体の活力を押し上げます。

最近、ひろゆきさんや苫米地英人さんも
YouTubeでお話しされていますので
是非そちらも参考になさってください。

苫米地英人さんは
2012年衆議院選挙で
新党大地から立候補しており、
私もその時の選挙で一緒に闘いました。
全く交流ありませんが、
以前からベーシックインカムのことを
お話されています。
この選挙では勝算はありませんでしたが、
次の選挙の試金石と考えていました。
そのときから私の選挙は
「ベーシックインカム一本」で勝負です。
あれから2年半、2022年7月参議院選挙があり、
去年2023年4月に統一地方選挙がありました。
統一地方選挙では五條陽子さんが
高松市議会議員に当選され、
香川で初めての日本維新の会の議員が誕生しました。
今は二人で、二人三脚、香川県総支部を運営し、
政策に取り組んでいます。
あれから一年が経ちましたが、
五條さんの議会での質問も
安心して聞けるようになりました。
最初はヤジを飛ばされたりして、
傍聴席にいる私もドキドキ緊張して観ていました。
最近はヤジもなく、
高松駅周辺のプロムナード化に関する質問や
災害に対する質問など、
住民の声をしっかり議会に届けて、
少しずつ結果を出しています。
ほんとに頼もしい限りです。

昨年2023年の10月に
念願の小豆島事務所を開設することができました。
香川県は日本一面積の小さい県です。
瀬戸内海にある島は112島、
その内人が住んでいる島は24島あります。
その島を合わせても日本一小さい県なのです。
香川県の発展の為にも
小豆島は重要な拠点になります。

来年2025年は瀬戸内国際芸術祭と
大阪関西万博が同時期に開催されますので、
今はその両方の成功に向けて
私なりに活動をしているところです。
一昨年の2022年11月には、
小豆島町の大江町長を大阪府庁までお連れして、
知事室で吉村知事と面談し、町長から小豆島を
しっかりアピールしていただきました。
小豆島にギャラリーがある
ガーナの環境問題に取り組むアーティストの
長坂真護さんのご紹介もしていただき、
のちに万博と繋がったことが確認できて、
やれることはやったという実感があります。
昨年2023年6月には、足立康史衆議院議員と
YouTubeの町川ジュンコチャンネルで
旅番組を収録し、
その番組でも長坂真護さんのギャラリーを
ご紹介させていただきました。
真護さんのサステナブルな活動が、
まさに万博のテーマの
「いのち輝く未来社会のデザイン」ぴったりで、
これも是非一度ご視聴いただければ嬉しいです。

瀬戸内海は世界の宝石、
日本で初めて国立公園に指定されて
今年で90年になります。
瀬戸内海を保全し、その恵みを生かして、
経済や文化、アートなどが発展してきました。
引き続き瀬戸内海の美しさを活かした観光産業と
豊かな住民生活を
次世代につないでいきたいと思います。

50年後に
「小豆島を拠点とした本州と四国を繋ぐ
 
海中トンネルが開通したらいいのにな」
と、
壮大な夢を持ちながら
これからも政治活動を続けて参ります。

政治の世界に入ってはや15年。
毎日がチャレンジで、
まだまだ続くよ「町川ジュンコのつうしんぼ」
これからも候ご期待よろしくお願い致します!

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