町川ジュンコの人生つうしんぼ
■ History
じゃじゃ馬だった幼少期
香川県の三木町で生まれ育ちました。
両親と姉の四人家族で、父は真面目な畳職人。
私はじゃじゃ馬な性格で、
自由すぎてよく怒られていました。
それを象徴するのが、小学校に入学してすぐのこと。
ランドセルを学校の垣根にかけたまま
友達の家に遊びに行き、
家に帰ると、家の前にパトカーが停まっていました。
私が誘拐されたと勘違いした両親が、
捜索願を出していたのです。
そんな大騒動になっているとも知らず、
歌を唄いながら帰宅した私……。
今では笑い話ですが、
両親は気が気じゃなかったと思います。
小学生の頃は、絵を描くのが好きでした。
幼稚園の時に描いた
動物園のおサルの絵が入賞したんです。
賞状をもらえたことが嬉しくて、
それから絵を描くことが
好きになったんだと思います。
また、走るのも得意で、
私は4月生まれですから体も大きく
運動会では常に一位でした。
自分より前に人がいると俄然力がわいてきて、
ビュンビュン追い抜いていました。
小学生のあいだ、美術と体育の成績は5。
音楽はちょっと苦手でした(笑)
親が敷いたレールを歩むことに
疑問を感じ始めた思春期
中学校に上がってからは、陸上部に入りました。
本当は、バレーボールがしたかったんですけどね。
当時、少女漫画『アタックNo.1』が流行っていて、
あれにすごく感化されたんです。
なのに走るのが早いから、陸上部の先生から
「バレーボール部じゃなくて陸上部に」
と言われて。
一度はバレーボール部に入りましたが、
バレーボール部の監督と陸上部の監督が談合して
「町川さんにはバレーボールの素質がないから、
陸上部に行きなさい」
と言われてしまいました。
今思うと、親も監督から説得されていたと思います。
当時、陸上競技で使うスパイクは高額で
中学生の私には手の届かない存在だったのですが、
親から
「スパイクを買ってあげるから、
陸上部に入りなさい」
と言われたことがあって。
それにまんまと乗せられて、
陸上部に入部したんです(笑)
入部後は、県大会で入賞するなど、
どんどん結果を出していきました。
そうなると、高校からも目をつけられるわけです。
私は将来、自立して商売がしたいという
強い想いがあったので、商業高校への進学か、
美術が好きだったので
工芸高校の進学を希望していました。
なのに、陸上部での活躍を聞きつけた
高松東高校の先生が、毎日、家に説得に来るのです。
両親も最初は
「ウチの子は言い出したら聞かない子なので、
諦めたほうがいいです」
と言ってくれていたんですが、
何週間も諦めずに通ってくる先生に
根負けしたようで。
「ここまで通ってくれてるんやから、
東高に行きなさい。
他の高校に行きたいんだったら、
自分でアルバイトして
学費を全額払って行きなさい!」
と言いはじめてしまって。
しかたなく姉と同じ高松東高校の普通科を
受験することになったんです。
この時は、さすがに心が折れちゃいましたね。
というのも中学生に上がった頃から、
親に「ああしなさい、こうしなさい」と言われ、
その通りにしなければならないことに
いつも不満を感じていたから。
誰かに決められたレールの上を歩くのではなく、
自分がやりがいを感じられる道を
歩きたいと思っていたからです。
また、姉とまったく同じレールを
歩ませようとしてくるところにも
不満を感じていました。
3歳上の姉は、親の言った通りにふるまう優等生で
両親としては
「女の子なんだし、順子もお姉ちゃんと同じ
人生を歩んでほしい」
という想いがありました。
私にとって、それはつまらないものでした。
そういう気持ちを抱えていたので、
自分で努力をしたり、
自分から何かにチャレンジしたりする気持ちを
抑えつけられたことで
心が折れてしまったのです。
当時は時代的にも、
女性が大学に進学することはほぼありませんでした。
高校を卒業したら、
そのまま就職する子がほとんどでしたから。
高校はイヤイヤ進学したものだから、
高校三年間はあまり覚えていません。
姉を担当した先生から
「お姉ちゃんは優秀だった」
と言われるのもとてもイヤでした。
陸上部は途中からですが一生懸命やりました。
ここでも逸話があって、
私がイヤイヤでも東高校に行くのを承諾したのは、
親から
「東高校に進学したら、
陸上部には入らなくていいから東高へ行きなさい」
とまで言われたからなんです。
なのに合格発表の日、
陸上部の先輩たちにすぐに囲まれて
「陸上部に入りませんか!?」と言われて(笑)
断り続けていたのですが、
一年生の夏休み前に
「合宿があるから来ませんか?」と誘われて、
高校生活もだいぶ慣れてきたし、
特段楽しいこともないから、
「合宿ってなんだか楽しそうだから
行ってみようかな」
くらいの軽い気持ちで参加してみたら、
もうどっぷり逃げられないわけです。
それで、高1の夏から心を入れ替えて
陸上部に入ることにしました。
種目は100m走と三種競技、400mリレー。
まあまあ、いい成績を残せたと思います。
だけど高校二年の夏に捻挫をして、
それから「変形股関節症」と診断され、
このまま陸上を続けると
将来は車椅子になると言われ、
泣く泣く断念することになったんです。
インターハイ直前の挫折は
本当に悔しくてつらい経験でした。
しかし今となってはこの挫折が
私にとっては良い経験だったんだと思います。
「イヤイヤやってるとこうなるんだよ」
と教えてくれたみたいでいい教訓になりました。
あとで分かるんですが、
東高に行ったことは運命だったんだと思います。
実はのちに陸上部の憧れの先輩と
結婚することになって、
人生って本当にわかりませんよね。
経営者になるという夢を加速させた
会社員時代
両親は、
〈娘たちは高校を卒業したら良い会社に就職して、
良いところにお嫁にいく〉
という
ストーリーを描いていました。
優等生の姉は、ちゃんとそのストーリーに乗っかり、
高校卒業後は銀行に就職。
私はというと、美術などの
クリエイティヴが好きだったから、
堅い仕事には就きたくありませんでした。
性格的にも、合わないと思っていました。
高校の時の美術の先生と
とても仲がよかったんですが、
先生からも
「町川さん、まさか銀行には行かんよな?」
と言われるくらい(笑)
先生ですら、私が銀行に向いていないことを
察知していたようです。
しかし、もうお察しかと思いますが、
私も銀行に就職することになります。
しかし、半年で辞めてしまいました。
お札を手で一枚一枚数えて、
100枚の束にする作業があるんですが、
何回やってもまあ合わない。
電卓も合わない。
そういうことを毎日やるのが苦痛でした。
決定打になったのは、住宅金融公庫の窓口業務です。
ここに来られるお客様は
「お金が払えなくてすみません」
「今月はこれだけしか払えません、ごめんなさい」
と謝りにやって来るんです。
いくら業務だとはいえ、
苦労している人たちから
お金を取り立てることに
後ろめたさを感じるようになりました。
19歳の私には、心が痛んで耐えられませんでした。
銀行を辞めた後は
電化メーカー系金融会社に就職。
ここの採用面接でも、ひと波乱ありました。
ウチはポストに郵便物を投函したら、
傘立てのところに落ちる
仕組みになっていたんですが、
面接の案内状が傘の中に入ってしまい、
案内状が来ていることを知らずに
過ごしていたんです。
そうしたら面接当日に電話がかかってきて
「町川さん、今日面接ですけど
来られないんですか?」
と言われて、びっくり。
「今からでもかまわないので、来てください」
と言われ、急いで行った思い出があります。
遅刻したのに私が採用されたみたいで
なんか他の人に申し訳なかったのですが、
昔から、ドジなエピソードには事欠きませんね。
その会社は、当時では珍しい週休二日制で
給料も良く、6年間くらい勤めました。
当時は残業時間の上限がなく、
働いたら働いたぶんだけお金として返ってくるので、
働くことが苦じゃなかったんです。
締め切りがある仕事だったので、
自ずと残業時間が増えていきました。
福利厚生もしっかりしていて、
休みの日にはソフトボール大会などの
イベントに参加していましたよ。
オンとオフ、両方楽しんだ思い出があります。
先日、その会社の後輩二人が
事務所を訪ねてきてくれて嬉しかったんですが、
二人ともおっさんになってて
はじめは誰だか分かりませんでしたよ(笑)
楽しいOL生活でしたが、学生の頃からの
「独立して、お金を稼ぐ」という夢は
捨てきれないままでした。
それには理由があって、20歳の時に
「将来、年金制度は破綻する」
というニュースを見てしまったんです。
自分が100歳まで生きたとしたら、
どれくらいのお金が必要なのかを試算して、
愕然としましたね。
毎月、自分の給料を全額貯金したとしても、
全然足りない。
その時に、サラリーマンのままでは老後が不安だから
経営者になりたいという気持ちが
一層強くなりました。
結婚と離婚 波乱万丈の始まり
27歳で憧れの先輩と再会し晴れて結婚をしました。
しかし一年後、
主人が30歳になったその日に心筋梗塞で倒れ、
一時はどうなるかと心配しましたが
何とか一命を取り留めることができました。
そのまた1年後に待望の息子が生まれます。
不妊症だった私に子供を授けてくださって
本当に感謝しかありません。
可愛くて可愛くて本当に嬉しかったです。
しかし、主人の健康や経済的な問題から、
徐々に二人の間に亀裂が入り
32歳の時に離婚をしてしまいます。
心配した父から
「何か手に職をつけたほうがいい」
とアドバイスを受けます。
自分は何がしたいのかを考えた末、
絵を描くことが好きだったので、
メイクの道に進もうと決意したのでした。
両親が一緒に子育てする覚悟をしてくれたので
「子どもは私たちが面倒を見る。
順子はやりたい仕事をしっかりとやりなさい」
と言ってくれました。
両親の協力がなかったら、
今の私はなかったと思います。
息子も立派に育ててくれました。
本当に両親には親子共々感謝しています。
そこからは、両親と三人体制で子供を育てました。
念願だった自営業の道へ
メイクの道に進むのであれば
専門性を身に着けたいと、
大阪の専門学校に一年間通わせてもらいました。
授業自体は楽しかったですが、
週に一度、新幹線で学校に通うのが大変でしたね。
そして学校に通うのと並行して、
高松の街中にメイクサロンを開業します。
子供を両親に預けて仕事するんだから、
絶対メイクで食べていくんだという
覚悟を持っていました。
当時、お客様にフルメイクを施し、
プロのモデルさんみたいな写真を撮る
「ベストショット」というサービスが
ハワイや都会で流行っていました。
高松にはまだそういったサロンがなかったので
「これはチャンスだ!」と思い、
「変身メイク」をサロンの売りにして
はじめました。
すると、地元だけでなく、
県外からもお客様が来られるようになりました。
そのことが評判を呼び、
テレビ番組のヘアメイクや
ブライダルメイクの仕事が舞い込んできて、
次第にサロンよりも
そちらの仕事が忙しくなってきたので、
サロンはメイクスクールに形態を変えて
運営することに。
メイクの事業はバブルの波に
うまく乗っかれたと思います。
だけど経営は本当に難しいなぁと、
色々な苦労をしました。
再婚、北海道へ移住
その後、40歳で再婚。
相手の方が北海道の方だったので、
北海道に引っ越すことに。
北海道に移っても、主人の勧めで
メイクの仕事を続けることができました。
当時「15分メイク」というのが
東京で流行っていて、
主人から札幌でクイックメイクのサロンをしたら
と言われて始めることになります。
ちょうど「ホットペッパー」が流行り始めたころで、
広告出したら次から次とお客様が来られて。
札幌の文化にマッチしたのか、
本当にさまざまなお客様に来ていただきました。
そうしたら次は、
「プロのメイクアップアーテストになりたい」
という人がでてきて、
メイクスクールも開くことになったんです。
スクール卒業生には
うちのサロンで働いてもらうようにして、
雇用機会の創出もできて一石二鳥でした。
プロコースの卒業生は100人を超えていて、
今も現役で活躍している人がいます。
サロンもスクールも好調でしたが、
突如暗雲が立ち込めます。
2005年に「美容師法」が改正され、
美容師免許がないとお客様にヘアメイクを
施してはいけないという法律が施行されたんです。
ホットペッパーにも広告が出せなくなり、
新規客は激減。
2007年に再婚相手とも離婚し、生き詰まった私は、
卒業生にサロンを譲渡して、
私は引退する決断をしました。
しかし譲渡したとはいえ借金だけが残り、
この先どうしていいのか、一人で路頭に迷いました。
人はこういう時に死ぬんだなぁって
真剣に考えた時期もあります。
ですがそのとき入会していた倫理法人会の仲間が
心配してくれて、毎日私を一人にしなかったのです。
そのおかげで今の自分があると
いつもいつも感謝しています。
この時に初めて
「法律って、誰が決めているんだ!?
国会議員って誰!?」
と怒りがこみあげたのを覚えています。
ですが私が政治に関心を持つのはもっと先の話です。
職を失い、2008年に香川に戻ることにしました。
一年ほどたったある日、
鈴木宗男先生から突如電話が鳴るのです。
鈴木宗男先生から、突然の電話
忘れもしない2009年の8月13日、
「鈴木宗男です。折り返し電話をください」
という留守電が入っていました。
慌てて電話を掛け直したら
「新党大地の立候補者として、
衆議院選挙に出てくれ」
と言うのです。
当時、新党大地は女性議員の輩出を掲げており、
そのなかで過去に数回会ったことがある
私のことを思い出したようでした。
「何を言っているのですか?無理です、無理です!」
「いや、出てくれ!」
の押し問答が続くなか、
「私はもう香川に帰っていて北海道にいませんし、
無理です」
とも伝えたのですが、
「国政選挙は日本国内に住んでいたら出られる」
と言われ……。
もう断れませんでした。
公示ギリギリに連絡をしてきたってことは、
よほど切羽詰まってるんだなと思い、
私なんか当選するはずもないから、
とりあえず出るだけ出てみようと。
北海道から香川に帰ってからは
「肥満予防健康管理士」の資格を
取るくらいで何もしていませんでしたので、
ちょうど時間もあったんです。
宗男先生には
「私は選挙のことは何もわからない。
演説とか言われても何も話せない」
と伝えましたが
「全部、私がやるから大丈夫!
何も心配することはないから、
体一つで北海道に来なさい」
と言われました。
そして
「明朝一番の飛行機に乗ってくれ。
あとは秘書から連絡するから!」
と言い残し、
電話はガチャンと切られてしまいました。
電話があってからわずか一時間の間に、
選挙への出馬が決まってしまいました。
鈴木宗男先生との出会い
宗男先生とは、それまでに
何度か会ったことがありました。
2005年に札幌で、
アフリカのウガンダの子供たちを支援する
チャリティイベントを
メイクの生徒さん達と開催した時のことでした。
きっかけは、私の知り合いが
ウガンダに小学校を建てたこと。
特にエイズ孤児を支援していました。
ウガンダの子供たちは毎日徒歩で山を越え、
給食を食べることを楽しみにして
学校に通っているのだと知人から聞き、
どうにかして子供たちの力になりたいと思いました。
そこでメイクサロンの生徒たちを巻き込んで
イベントを開催し、
集まったお金を子供たちの給食費として
ウガンダに送ることにしたのです。
そのイベントのことを知った宗男先生が、
アフリカ出身のムルアカさんを連れて
挨拶にきてくれました。
「すばらしい活動ですね。がんばってくださいね」
と声をかけてくれました。
その時はあまり会話をしていませんが、
初対面の印象はすごく良いものでした。
当時、宗男先生は世間から
バッシングを受けており、
私もテレビでその姿を見ていました。
しかし私は、根拠はないものの、直観的に
「この人は、本当は悪い人ではない気がする。
何か理由があって、こうなっているのではないか」
と感じていたのです。
そして実際に会った瞬間
「うん、この人は大丈夫。信じていい」
と思いました。
人って、やってきたことや考えていることが
顔に出ると思うんです。
嘘ばっかりついてる人の顔と、正直な人の顔って、
会った瞬間にわかりますよね。
宗男先生の顔は、後者でした。
それに「この人のために、何か協力したい」と
思わせるような、人を惹きつける、
芯の強さを感じたんです。
さすがに「選挙に出ろ!」という
突然の無茶ぶりにはイラッとしましたけど(笑)、
すごく信頼できる政治家だと思いました。
単身、北海道へ!
翌日、北海道に着いたら
「明日、記者会見があります」
と言われました。
宗男先生には
「私がちゃんと話をするから大丈夫!」
と言われたんですが、
そんなはずない、
当然私も記者から質問されますよね。
緊張しすぎて、
その時の記憶はほとんどないんですが
「女性の立場から、声をあげます」
みたいなことを言った気がします。
街頭演説もしなくていいと言われていたのに、
公示の日に札幌の大通り公園で
「第一声」というのがありました。
テレビカメラがずらっと並んでいる前に
選挙カーを停めて、
車の上に候補者たちが上がって演説する、
恒例イベントがあるのです。
その時、歌手の松山千春さんが
鈴木宗男の後援会長としてその車に乗っていました。
私は千春さんファンだったので、
それだけは嬉しかった思い出が(笑)
だけど緊張しっぱなしで
「千春さんに会える!」とワクワクする余裕は
まったくありませんでした。
車の上に乗った時点では、
まだ何をするのかもわからないまま。
しかし宗男先生が最初に演説をし、
そして候補者が次々に演説していく様子を見て、
事態を把握しました。
「演説しなくていいって言ったのに!」
と頭が真っ白になりましたよ。
私に順番が回ってきて
とりあえず自己紹介をしてから、
自分がシングルマザーだということ、
シングルマザーの立場から声を上げていく
ということを宣言しました。
多分2分ぐらいしか話してないんですが、
ものすごく長く感じましたね。
車から降りた時に「だまされた!」と
宗男先生を恨みましたよ(笑)
鈴木宗男事務所はベテランの選挙集団なので、
素人の私は事務所に言われるがまま、
講演や挨拶などをこなしていきました。
選挙期間の12日間、
とにかく必死でした。
選挙が終わった後は張りつめていた緊張がほどけ、
涙が止まらなくなったことを
今でもよく覚えています。
これが50歳のことでした。
あれよあれよという間に、
新党大地の副代表に
宗男先生が当選されて、選挙が終わった数日後に
「お疲れ様会」が開かれました。
「初めての選挙は本当に大変だったけれど、
貴重な経験をさせてもらったなあ。
お疲れ様会が終わったら、すぐに香川に帰ろう」
なんて思いながら参加したら、宗男先生から
「町川さん、今回は申し訳なかったな。
次はちゃんと出番を作るから!」
と言われてびっくり。
次もあるなんて、考えてもいなかったからです。
実は北海道に行くとき、
私は両親に選挙に出ることを言っていませんでした。
「鈴木先生が選挙を手伝ってほしいと言ってるから、
ちょっと北海道に行ってくるわ」
としか言ってなかったんです。
だけど出馬会見の模様が全国に伝わることがわかり、
慌てて実家に「明日、新聞に載ります」と連絡。
父には「なんでお前なんや!?」と言われましたが
「わからない。
とりあえず選挙が終わったら帰るから!」
とだけ伝えていました。
なのに宗男先生から
「次もある」と言われてしまったものだから困惑。
「ちょっと親と相談してきます。
3ヶ月、時間をください」
と返しました。
実はその時、母が肺気腫という病気で、
私が札幌に行くときには体重が激減していて寝たきりの状態だったんです。
私が香川に帰ってから診断されたのですが、
母はバセドウ病も併発していることがわかりました。
それが原因で体重が急に減っていたそうです。
そしてなんと母のバセドウ病に合う薬が見つかって、
母は3か月で奇跡的に元気になったのです。
それでうちの両親も
「北海道に行っていいよ」
と次の選挙に出ることに反対はしませんでした。
父にいたっては
「鈴木宗男先生は、日本の国のために必要な政治家。
その先生がうちの娘みたいなもんを
必要としてくれているんだったら…」
と背中を押してくれて。
父も私と同じように、宗男先生に対して
何か感じるものがあったのだと思います。
それで2009年12月に晴れてまた札幌に戻りました。
1年後の2010年12月、
宗男先生が最高裁の有罪判決を受け、
収監されることになったんです。
その時はもう目の前が真っ暗になりました。
悔しくて毎日泣いていました。
その時の私は、新党大地の副代表。
先生が帰ってくるまで
新党大地代表の代理を務めなくてはならない役です。
ここで言っておきますが宗男先生は冤罪です。
有罪が決まってなにか宗男先生のお役に立てないかと、
私はすぐに事務所の仲間と「取り調べの可視化」の署名運動を始めました。
確か約70,000件の署名が集まったと思います。
それを国会に提出して、実際に取り調べの可視化が採決され今に至っています。
そして2011年3月には東日本大震災が発生し、
その対応にも追われました。
とにかく必死でした。
「こんな時、宗男先生だったらどう判断するかな?」
と考えたりしながら、
1年間どうにかこうにか乗り切りました。
香川に戻り、
玉木雄一郎氏の公設第一秘書に
2013年6月、宗男先生の娘である鈴木貴子さんが
繰り上げ当選されました。
私が北海道で政治活動を続けていたのは、
宗男先生の公民権が停止している間、
宗男先生の意志を繋ぐ役割を果たすためでした。
娘さんがバッチをつけたことで、
私の役目はこれで達成したと思いました。
ここで一度、私は政治家を引退します。
2014年10月、
今度は故郷の三木町長から電話があるのです。
「4年後の選挙で私は引退するから、
次は町川さんが町長になってください」と。
いきなりの話でびっくりしました。
うちの親からはいつも
「近所や親戚が大変な目に遭うから、
絶対に地元では選挙に出てくれるな」
と忠告を受けていましたので断るつもりでした。
だけど、宗男先生から
「親はあとで説得しろ!選挙に出ろ!」
と言われ(笑)、
それでまた引き受けることにしたんです。
町長から
「次の春に県会議員の選挙があるから、
まずはそれに立候補してほしい」
ということだったので
慌てて私は札幌から香川に帰る準備をしていました。
が、そこでまた別の展開になるわけです。
当時、民主党の玉木雄一郎さんが推薦する
別の県議会候補と町長候補を
町長のところに連れてこられたんです。
町長も困っていましたが、
私としては、親も反対しているし、
ちょうど良かったと思って
「どうぞ、どうぞ」と喜んで譲ったのですが、
周りの人が黙っていませんでした。
「せっかく町川さんが
町長になる気になっていたのに、
邪魔をした!」
などと……。
それで、代わりのポジションというと変ですが、
香川に帰って玉木先生の秘書を
務めることになったのです。
秘書という仕事は初めてでしたが、
新党大地の副代表として
活動していた経験があったので、
仕事はスムーズにスタートしました。
とにかく香川に帰って来られたことが嬉しくて、
毎日朝から夜遅くまで精力的に働きました。
しかし、2016年民主党が共産党と組んで
参議院選挙を戦うことになって、
我慢できない私は共産党の片棒は担げないと、
方向性の違いから
3年も経たないうちに秘書を辞めてしまいました。
秘書をしながら2年前から通信教育で
日本大学を受講していましたので、
辞めたら大学に通って
集中して受けて早く卒業しようと
東京へ行くことにしました。
こうやって政治に携わるうちに、
真剣に一から政治を学ぶ気になったのです。
上京後、自民党衆議院議員の
鈴木貴子氏の秘書に。
そして再び北海道へ。
いざ上京したものの、
大学に通うだけでは時間を持て余していました。
そこで宗男先生のところに行って
「何か仕事をいただけないか」とお願いし、
お嬢さんである自民党所属の鈴木貴子さんの
秘書をやらせていただくことになったのです。
上京するまでは秘書の仕事が忙しくて、
大学の単位を取得するのに苦労していたのですが、
大学に通いながら貴子さんの秘書を
やらせてもらえたのはとてもありがたかったです。
その後、2019年に
札幌事務所の秘書が辞めることになり、
私はまた札幌に行くことになるのです。
その年に宗男先生が
日本維新の会から参議院選挙に出馬して、
私は最後のご奉公と思って、
寝る間も惜しんで選挙事務所で奮闘しました。
そして宗男先生はめでたく9年ぶりに当選され、
感無量でした。
特に嬉しかったのは、宗男先生のお嬢さんの
貴子さん(自民党衆議院議員)が、
来るなり私に「町川さーん!」って
抱きついてきたんです。
このとき親子で戦った長い戦いが終わったんだぁと
涙しました。
その後、私は
日本維新の会北海道総支部を立ち上げることになり、
それらを仕切る役として、
日本維新の会を詳しく知ることになります。
ここで私はベーシックインカムに出会う訳です。
ベーシックインカムは、
私が2012年から練ってた政策
「家族手当」そのものでした。
ですからすぐに飛びつきました。
それに今まで民主党、自民党の
政党に関わってきましたが、
しがらみの全くない日本維新の会が
とても新鮮でまともに見えました。
民間感覚で言ったからには必ず実行する
有言実行の政党です。
ちょっと不器用なところもありますが、
私にはよく理解できました。
2年ほど宗男先生の公設秘書を
勤めさせてもらいましたが、
ベーシックインカムのことが気になり始めて、
だんだんと自分の進む道に
「選挙」いう二文字がちらつき始め、
人生を考えるようになったのです。
転機になった、
2021年自民党の総裁選挙
退職後、時間があったので、
9月にあった自民党の総裁選挙の演説を
テレビでずっと見ていたんです。
一般党員の投票では岸田文雄氏より河野太郎氏が
大差をつけて優勢だったのに、
最終国会議員の投票で、あっけなくひっくり返され
岸田総理が誕生した瞬間
「ダメだ!ダメだ!日本がダメになる!!
まだこんな古い派閥政治をやってるんだ!」
と一人で叫んでいました。
だって、一般党員の意向が
全く反映されていないんですから。
今の政治の縮図そのものだと、
こんなんじゃ日本が良くなるはずないと思いました。
岸田さんは
「私の特技は、聞く力です」
なんて言っていましたけど、
実際のところどうでしょう?
自民党支援者のところには行くけれど、
政権から遠いところにいる人のところへは
行っていない。
身内で用意された人の話を聞いているので、
当然身内向けの政策ばかりです。
「その政策そこじゃないんだけどなあ」って、
ぶつぶつ独り言を言っています。
今の自民党政治は、業界団体や大手企業に向いた
政策ばかりで国民は後回しです。
どんどん問題が広がっているのに
的外れの政策が続いています。
人気取りばかりで
真剣に国民に寄り添っていないように思います。
「このまま、放っているわけにはいけない!」
突然スイッチが入った私は、
すぐに選挙に出る計画を立てました。
選挙に出られるのか、どうなのか、実現可能なのか、
リアルにシミュレーションをしはじめました。
選挙は、1か月以内に行われる衆議院総選挙です。
以前名刺交換したことがある人たちの
名簿をひっぱり出してきて
何人かに電話をかけていったところ
「協力しますよ」と言ってくださる方が数名いて、
何とかやれるかもと思いました。
それでも「本当に出馬していいのだろうか?」と
自問自答しながら、
公示までの日にちもなくなってきたので、
思い切って宗男先生に電話しました。
「香川1区で選挙に出ます」と告げたら、
宗男先生はびっくりして少しの沈黙のあと
「町川は選挙に出ないって
言ってたんじゃないか?」
「すみません。考えが変わりましたので、
日本維新の会から公認をもらえるよう
党本部に私を推薦してください!」
とお願いしました。
おかげさまで数日後、
晴れて私は日本維新の会公認をいただいて、
衆議院香川1区の候補者として
選挙に出馬することができたのです。
あの時の私は自分でも信じられないくらい、
何かに取りつかれてるみたいで止まりませんでした。
本当の意味での私の政治家人生のスタートは
ここからでした。
この選挙では勝算はありませんでしたが、
次の選挙の試金石と考えていました。
そのときから私の選挙は
「ベーシックインカム一本」で勝負です。
あれから2年半、2022年7月参議院選挙があり、
去年2023年4月に統一地方選挙がありました。
統一地方選挙では五條陽子さんが
高松市議会議員に当選され、
香川で初めての日本維新の会の議員が誕生しました。
今は二人で、二人三脚、香川県総支部を運営し、
政策に取り組んでいます。
あれから一年が経ちましたが、
五條さんの議会での質問も
安心して聞けるようになりました。
最初はヤジを飛ばされたりして、
傍聴席にいる私もドキドキ緊張して観ていました。
最近はヤジもなく、
高松駅周辺のプロムナード化に関する質問や
災害に対する質問など、
住民の声をしっかり議会に届けて、
少しずつ結果を出しています。
ほんとに頼もしい限りです。
昨年2023年の10月に
念願の小豆島事務所を開設することができました。
香川県は日本一面積の小さい県です。
瀬戸内海にある島は112島、
その内人が住んでいる島は24島あります。
その島を合わせても日本一小さい県なのです。
香川県の発展の為にも
小豆島は重要な拠点になります。
来年2025年は瀬戸内国際芸術祭と
大阪関西万博が同時期に開催されますので、
今はその両方の成功に向けて
私なりに活動をしているところです。
一昨年の2022年11月には、
小豆島町の大江町長を大阪府庁までお連れして、
知事室で吉村知事と面談し、町長から小豆島を
しっかりアピールしていただきました。
小豆島にギャラリーがある
ガーナの環境問題に取り組むアーティストの
長坂真護さんのご紹介もしていただき、
のちに万博と繋がったことが確認できて、
やれることはやったという実感があります。
昨年2023年6月には、足立康史衆議院議員と
YouTubeの町川ジュンコチャンネルで
旅番組を収録し、
その番組でも長坂真護さんのギャラリーを
ご紹介させていただきました。
真護さんのサステナブルな活動が、
まさに万博のテーマの
「いのち輝く未来社会のデザイン」ぴったりで、
これも是非一度ご視聴いただければ嬉しいです。
瀬戸内海は世界の宝石、
日本で初めて国立公園に指定されて
今年で90年になります。
瀬戸内海を保全し、その恵みを生かして、
経済や文化、アートなどが発展してきました。
引き続き瀬戸内海の美しさを活かした観光産業と
豊かな住民生活を
次世代につないでいきたいと思います。
50年後に
「小豆島を拠点とした本州と四国を繋ぐ
海底トンネルが開通したらいいのにな」
と、
壮大な夢を持ちながら
これからも政治活動を続けて参ります。
政治の世界に入ってはや15年。
毎日がチャレンジで、
まだまだ続くよ「町川ジュンコのつうしんぼ」
これからも候ご期待よろしくお願い致します!